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第六話 藍殿

Penulis: 春埜馨
last update Terakhir Diperbarui: 2025-06-27 21:30:15

歩いて来た道を戻るように、妃たちの殿門の前を通り過ぎ、突き当たりを左に向かってそのまま歩いていくと、藍殿《らんでん》はあった。

「こちらになります」

「は、はい」

青を基調とした立派な建造物が何棟も連なっており、宿舎か何かだと蘭瑛《ランイン》は思った。ぼんやり眺めていると、隣にいた宇辰《ウーチェン》が、爽やかな笑みを向けて口を開く。

「あちらは、永憐《ヨンリェン》様の住居です。こちら側は、私たち護衛や侍女が寝泊まりする所になっております」

宇辰は、向かって右側の塔を指しながら、蘭瑛に説明した。

「はぁ…」

やはり、国師というだけあって、暮らしぶりは桁違いのようだ。ここで、露店の串焼きなんぞ食べた日には、間違いなく打首にされるだろうな…。蘭瑛から思わず苦笑いが漏れる。

「蘭瑛様は客人ですので、今晩はこちらではなく、あちらの塔にある客室へご案内いたします」

藍殿の斜め奥にある塔を指され、蘭瑛はコクっと頷いた。

宇辰の後ろに続いて歩いていくと、左右に分かれる中央の廊下に到着する。奥にはだだっ広い中庭があり、その庭を囲うかのように、藍殿は造られているようだ。宇辰から、左側の廊下は永憐の住居に繋がる為、ここから先は入室禁止であることを、入念且つ丁寧に説明された。

あんな威圧感を漂わせた、仏頂面の男の家に入ったところで何になる?居心地が悪いだけじゃないか。

蘭瑛はそう思いながら、口元を一文字に固める。

しかし、宇辰によると、今も永憐に好意を寄せた下女たちの侵入が後を絶たず、寝台に潜り込んだり、下着や肌着を盗む不届き者がいるんだとか。蘭瑛は宇辰に、無断で入ったらどうなるかを尋ねてみると、無断で入室した場合は、男女問わず三日三晩鞭打ちの刑に処され、しばらくの間、禁足処分になるとのことだった。

蘭瑛は、誰が見ても分かるぐらい顔を引き攣らせて、宇辰が歩いていった右の塔へ進んでいく。

すると、厨房から肉料理の香りがふんわりと踊るように、蘭瑛の鼻腔に入り込んだ。

(はぁ〜、なんて美味しそうな匂い…)

美味しいものに目がない蘭瑛は、口から生唾が飛び出そうになった。

そういえば、今日は突然の事で何も口にしていない。寄り道して、露店の串焼きを食べてくるべきだったと、蘭瑛は少し後悔した。

ぎゅるるる、とお腹が鳴るのを必死に止める。

蘭瑛はお腹を抑えながら、案内された厨房の中へ入った。

美味しそうな食材が並ぶ横で、忙しなく調理をする老女に、宇辰が声を掛ける。

「梅林《メイリン》様、今日もいい香りですね。今、少しだけよろしいでしょうか?」

(この人が、メイリン様なのか!)

蘭瑛はてっきり、永憐のお墨付きである若い女官だと勝手に思っていた。

振り返って蘭瑛を一目見た梅林は、鍋の蓋を持ったまま、目を輝かせている。宇辰は、手振りをしながら蘭瑛を紹介した。

「先日、話しておりました六華鳳宗の蘭瑛様です」

「蘭瑛と申します。しばらく、お世話になります」

蘭瑛は深々とお辞儀をする。それと同時にまたお腹が、ぐぅ〜と鳴った。梅林はクスクスと笑い、近くにあった出来立ての熱々な万頭を、蘭瑛に差し出した。

「まぁ〜、可愛らしいお嬢さんなこと。私は梅林よ。ここで、永憐様の食事とお世話係を担っているわ。何か困ったことがあったら、何でも言ってちょうだいね。あ、早く食べちゃいなさい。冷めると美味しくないわよ〜」

なんて好印象な老女なのだろうか。

蘭瑛は「いいんですか〜」と言いながら、目を丸くして熱々の万頭を見つめる。チラッと宇辰の方を向くと、頷きながら食べていいことを、黙認しているようだ。

蘭瑛は二人の優しさに甘え、万頭を勢いよく頬張った。

すると、一口口に含んだ瞬間ふわっと美味しさが広がり、蘭瑛は舌から溢れ出す感動に酔いしれた。

味は至って素朴なのだが、ほんのりと甘みを感じる。

これは、華山で露店イチとも謳われた、あの有名な万頭の味とは別格だ!

「おいひぃ〜です」

「そりゃそうよ。私が作ってるんだから〜」

自慢げに言う梅林もまた可愛らしかった。

蘭瑛はあまりの美味しさに、思わず顔が緩んでしまう。

今日の自分の夕餉は、梅林様が作ってくださったらいいなぁ〜、と蘭瑛は図々しくも淡い期待を胸に抱いた。

蘭瑛が食べ終わるのを待って、宇辰が口を開く。

「蘭瑛様、皇太子殿下にお渡しする解毒剤を梅林様に…」

「あ、そうでした!すみません」

一人だけ食べている場合じゃない。蘭瑛は慌てて、葯箱から解毒剤を取り出し、それを梅林に差し出した。

「梅林様にお渡しするようにと、永憐様から言われまして。こちらなんですが、お願いできますか。少量の水に溶かして、口に含ませていただければ大丈夫です」

「分かったわ。あとで皇太子殿下の所へ食事を届けるから、その時でいいかしら?」

「はい」

蘭瑛は梅林に解毒剤を渡したあと、宇辰に連れられて客室のある塔へ連れて行かれた。宇辰は「また明日殿下の様子を見に行っていただく為、お迎えに伺います」と言い残し、藍殿へ戻っていった。

客室の窓を開けると、濃紺な空に月の光が照らされているのが見え、ふと、『月夜《げつや》』という漢詩が浮かんできた。まるで自分が作者のように幽閉され、家族を悲哀しているかのように。

蘭瑛は窓辺で頬杖をついて、怒涛の一日だったことを振り返る。

(はぁ…疲れた。昼までは華山にいたというのに、夜はこんな所で眠るのか…。いつ帰れるんだろ…)

ふと目線を藍殿の左側の塔に向ける。

すると窓から、橙色の光が漏れていることに気づいた。あれから結局会うことはなかったが、永憐は戻ってきているようだ。

窓辺でぼんやりしていると、食事が運ばれてくる。

運ばれてきた蘭瑛の夕餉は、淡い期待を裏切るような残念なものだった。

翌朝。

あまり寝付けなかった蘭瑛は、ぼんやりとした目を擦りながら、昨日の晩に渡された衣に着替える。

普段は、六華模様の入った動きやすい襖裙《おうくん》を着ているのだが、用意されていた衣は卯ノ花色であしらった上質な柔らかい綿の襦裙《じゅくん》だった。着心地を堪能していたが、腰紐を手に取った瞬間蘭瑛の目が思わず跳ね上がった。何故か、男ものの長い腰紐が入っている。しかも、色は男が好む藍色だ。

「……」

辺りを見渡しても、代用できるものがなかった。

これしかないのなら、もはや仕方がない。

蘭瑛は溜め息を吐きながら、腰に紐を何度も巻きつけるようにして、それらしく縛った。

髪は普段通り、耳横から髪を半分に分け、髪紐で一つに結った。すると、身支度を整える頃合いを見計ったかのように、梅林が尋ねてくる。

「おはよう、蘭瑛。よく眠れた?あら、よく似合ってるじゃな〜い」

蘭瑛は苦笑いを浮かべながら、挨拶をする。

「永憐様が選んだのよ」

その一言で、蘭瑛の顔が一瞬で曇った。

(通りで、男モノな訳だ…)

蘭瑛は作り笑みを見せてその場をやり過ごし、梅林と一緒に昨日行った皇太子殿下の宮殿へ向かった。

息を切らす石畳の階段を登り終えると、何やら騒がしい声が境内中に響いている。

何事かと近づくと、入り口の扉の前で二人組の女の片方が護衛向かって、声を荒げているではないか。

「だから、中に入れなさいよって!賢耀《シェンヤオ》殿下の様子を見るだけじゃない!」

「だから、先ほどから何度も申していますように、王《ワン》国師殿から梅林様と六華鳳宗《ろっかほうしゅう》の方以外は入れないようにと、申し付かっております。お帰りくださいませ」

護衛の男は大変困惑しているようだ。

片方の女はお構いなしに、護衛の襟を掴んで怒声を飛ばしている。

「そんなの医局長の私は聞いてないわ!誰なのよ!その六華鳳宗っていうのは!」

「私です」

蘭瑛は、護衛の襟元を掴んでいた医官長の手首を持って、名乗った。

女はすぐに蘭瑛の手を振りほどき、蘭瑛の襟元に手を伸ばした。蘭瑛はすっとその手を避けて、また女の手首を下から掴む。叔父から教わった護身術がここで役に立つとは!

蘭瑛は更に、掴んだ手を上に持ち替えて、女の手首を思いっきり捻った。女は思わず痛みで唸る…。

「っ痛い!何すんのよ!ちょっと、離しなさい!」

「手を出したのはそちらでしょう?」

余裕綽々な蘭瑛の様子を見ていた梅林は「やるじゃな〜い」と、胸の前で手をぱちぱちと鳴らしている。

蘭瑛は捻った女の手首を勢いよく離し、女は手首を庇うようにして跪いた。片方の女は庇う様子もなく、ただ呆然と突っ立っているだけだ。

「あんた、名前は?」

「六華鳳宗の蘭瑛と申します。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」

額に青筋を立てながら、見下した笑みを浮かべて、蘭瑛は挨拶をした。

これは完全に煽っている。

「何よ!その顔。これで、タダで済むと思ったら大間違いよ!覚えておきなさい!この他所者が!」

唾を吐き捨てるかのように、勢いよく言葉を発して、女はもう一人の女を連れて、去っていった。

憎悪を滲ませた人の顔というのは、本当に醜く、悍しくて見るに耐えない。それが女であれば尚更だ。

気を取り直し、蘭瑛は梅林の後に続く。

昨日と打って変わって、賢耀は寝台の上で起き上がり、穏やかな様子だった。梅林と蘭瑛の姿を見るや否や、あどけない少年の可愛らしさを含めた声で、賢耀は二人の名を呼んだ。

「やぁ。梅林と蘭瑛先生」

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